何もないこんな日に、まるで何でもないようにこの人と別離を果たせたのだとしたら。
 残る痕は少ないだろうか、それとも多いだろうか。
 果たしてそれは、どちらの痕だろうか。


 別離


 予感などというものを、百介は信じない。
 ―特に、この件に関しては。

 真夏の中のまどろみは不思議だと、百介は思う。
 気を抜けば身体ごと溶けて行きそうな気分がする。風は何処までも凪いで居て、慰み程度に団扇で煽るのにも疲れてしまった。蝉の音も元気に外を走る子どもの声も、物売りの声も母屋から聞こえてくる喧騒も―全て裡にあるようで外の事のようで、はっきりとしない。自分というものが、身体に張り付く畳と別のものかどうかすら、怪しくなって来た。
 このまま眠ってしまえば、目覚めた時にひどい渇きと頭痛が待っているだろう事は目に見えていたので、百介は出来る事ならば身を起こし、水でも取りに行こうと考える。
 けれども、身体は泥のように重く瞼は重い。そのままごろりと寝返りを打つ。直接肌に張り付いていた畳がぱりぱりと剥れてゆく音が聞こえ、きっとその辺りには可笑しな跡が付いているのだろう、そう考えながらもぱたんと倒れる。

 身体を満たすのは満足感と、心地よい疲労と。
 僅かに、巨大な眠気に紛れてしまいそうな寂しさ。
 締め切りを終え、今回もまだまだ改良の余地が多分にある原稿が版元に渡った。己で満足できぬ部分がある本がそこそこ売れてゆくというのだから、世の中分からない。


―りん

 その音が欲しくて、滅多に風の来ない離れに風鈴を吊るして、莫迦だと己で哂った。
 何時訪れるか、呼びたくとも呼べるはずもない。仕方がない仕様がない。そう思ってみたところで、そんな不透明な彼に、百介は微かな焦りと苛立ちを感じる時が、あった。
 そしてそんな時、そう考える自分にはたと気付いて複雑に思う。

 根無し草の、怪談奇談にのみ興味を覚える、やる気も何もなかった冴えない自分に。
 ここまで執着するものができてしまったのか。
 百介は両腕を目の上に乗せ、眠ろうと思った。

―りん

 不意に―風が変わった。
 いや―音が変わった。

 百介は考えを止め、身動きするのも億劫だった事が信じられないような早さで起き上がった。開け放しの窓の下、風鈴が揺れ、その下に白帷子の行者包の男が鈴を構えて立っている。しかし、たった今そこに立ったという訳ではなさそうだった。

「―又市さんもお人が悪いな、何時からいらっしゃったんです」

 苦笑いしながら寝癖の残る頭に手をやると、男は人のいい笑みでその自分に言葉を返した。

「鈴の音にばかり頼っているからでやすよ」

 少しァ他の事にも目を向けなせぇ―男は久しいというのにそんな事一言も詫びず、却って憎らしい事を吐きつつ座敷に上がりこんだ。上がりこむ途中に一度蹴落としてやろうかと、先程の寂しさが微塵もなく吹き飛んだ百介は微笑みながら思う。

「質は悪ィが、茶菓子も買ってきやしたよ」

 下げていた包みを百介に渡すと、又市は畳の上に座った。

「それでは私は、冷たいお茶を貰ってきましょう」

 大きく息をつくと、どうも現金な事に動く気力が身体の中を巡る気がした。


 * * * *


 又市が頷く間もなく、百介は渡り廊下に消えた。
 又市はその後姿に、嘆息する。
 だらだらとしているようで、茫洋としているようで―。同時に動き出せば意外に素早く、思い切った事もする。離れに上がりこむまでも、茶を出して、話をして、陽の当たる場所で、百介と同じ場所で笑うまでの躊躇も―。
 気が付けば向こうが破っていた。それは取り壊しの決まった建物を崩すのにも似て、百介自身の一瞬の躊躇の後に、決まってやけくそにも似たひどい勢いで決行されるのだった。初めて座敷に上がった時、窓から引きずり込まれて強か打ったあばらは、今でも思い出したように痛む。

「ただいま戻りました」

 程なく戻ってきた若隠居―戯作者は、汗の浮く水差しと椀の二つ乗る盆を降ろした。

「―家の皆には、大きく気紛れな野良狸が紛れ込むと伝えてあります」

 百介は二つの椀が乗る盆を見る又市に、苦笑いしてそう答えた。騙され通しどころか下手な空言まで吐くようになってしまった百介に、又市も苦々しく笑った。狸が人の椀から水を飲む訳がない。生駒屋の人間も、百介が正面から迎え入れる事を憚るような者を招いているとは気付いているのだろう。

―少しばかり、陽の下に居すぎたか。
 見た目に似合わず、百介によって豪快に濯がれた茶を受け取った。

「本日は、何か変わった事でも?」

 百介は椀を傾ける。ひどく仕合せそうなところを見ると、正直客よりも自分が喉を潤したい方が強かったのではないかと邪推した。

「ああ―」

―りん

 言いかけて、人ではないものに遮られた。
 振り返れば、窓に下げられたそれは余韻のように、ちりちりと細かな音を立てている。己の鈴よりも、高く澄んだその音の元を見る。先の夏には見かけなかったそれの理由(わけ)を尋ねれば、百介はどのような反応を返すだろうか。視線を返すと、百介は気にならないような振りして、饅頭にかぶりついていた。その姿がひどくおかしく、そして―。

 それは、まったくの日常。
 欠けるところなど何所にもない、転がせばころころと真っ直ぐに転がってゆくような日常。

 暑い。
 風は時折吹くが大抵は凪いでいて、外には蝉が煩く。暑さにに負けぬ子どもが外を賑やかに走り、その声に負けぬよう、こちらは少々無理をして物売りが声を張り上げる。ひどく喧しくはあるが、同時にあまりの喧しさで全てが混ざり合い―不思議な事に音のないようにも思われる。

「いやァ―」

 又市は笑った。

「先生がよりご立派な先生になられたってのに、奴ァお祝いの一つも差し上げてねェ」

 又市はそう言うと、懐から小さな包みを取り出した。その言葉と仕草に、百介は目を丸くする。

「お祝いって―先日おぎんさんと治平さんと来て下さったじゃないですか!」

「―先生と奴の仲ですぜ。何の邪魔もなく行きてェってのにあいつら―」

 驚いた百介に、又市は得意の戯言で応じた。―時々、又市は百介の前で全ての嘘が見破られている気分になる。それでも他に方法を知らなかったから、又市は嘘のまま、そのまま百介に言葉を続けた。そして包みを百介の手に落とすが、考えより重たかったようで、百介は慌てる。


「先生は奴のモンでさァ―」


 戯言のようにそう言った。
 又市は笑った。

 百介は照れたように苦笑して、包みを開けてもよいかと聞いた。
 頷くと、丁寧な手つきで包みを解いていく。中からは小さな箱、それを開くと、小さな墨が姿を現した。丸くされた墨の表には、花の模様が模られている。

「うわあ」

 その声が、神社仏閣怪談忌憚、埋もれるような書物の山とに対する時と同じ音だったので、又市はそっと安堵の溜息を吐いた。表情を窺ってみれば、喜びと驚きが半々といったところか。

「頂いてもよろしいのですか?」

 手渡したからにはそうなのだろうに、苦笑いをして当然だと答えると、百介はにこにこと気味の悪いくらいの笑みでそれを見つめる。

「ありがとうございます」

 又市を見ると、百介はそう笑った。
 百介が笑う途中、その左頬に微かに畳の跡が付いている事に気付いた。又市が思わず吹き出すと、百介は不思議そうな顔をする。又市が自分の頬を示して教えてやると、百介はその跡に触れた。そして真赤になる。


 * * * *


 普段と何も変わりはなく、又市は笑い、百介も笑い、日が傾く。
 百介は何度か墨を眺めてはにこにこと笑っていたので、又市は呆れた。
 やがて、又市は離れの窓からひらりと外に出て百介を振り返り、にこりと笑った。

 もう一度会おう、やらまたお会いしましょう、といった類の言葉を、百介はこの男と別れる際に聞いた事がなかった。自然こちらからも言う事は憚られる。窓の桟に手を掛けながら、百介もいつものようににこりと笑い返した。
 予感などというものを、百介は信じない。
 ―特に、この男に関しては。

 きっとこの又市の事だ、最後は突然に何の前触れもなくひどくあっさりと。日常の続きからひょいと取り上げてしまうように消えてしまうのだろう。いつでも百介はそう思っていた。初めて会った時、二度目に会った時はそうでなくとも、仕掛けに加わり段々と近くなってゆきながら、そう思うようになっていった。
 だから信じないという言葉は正しくはない。
 いつでも覚悟をしていた。
 ひどくおそろしかったので、予感があったところで分からなかっただろうと思った。

「又市さん」

 なぜ言い出そうとしたのか、百介自身正直分からなかった。ただ呼びかけると、又市は次の言葉を待つように軽く微笑んだ。その裏側が自分に読み取れる筈もなく、百介は困ってしまう。

  「あ、いえあの―またお会いできますよね」

 その言葉に、又市は僅かに目を見開いた。
 そして、笑った。

「いつだって会えやすよ先生。今度だって呼ばれりゃァいつだって駆けつけるものを、先生が遠慮してるのが悪いんでさァ。奴はついに愛想を尽かされたかと、冷や冷やしておりやした」

 軽い口調で又市はそう応じる。逆に百介が目を見開く番で、百介はそのまま赤くなってしまった。


 * * * *

「悪いが約束は出来ねェんだ、―百介さん」

 何かを言った男に、初老の男は乱暴に聞き返した。男の方でも、何でもないと乱暴に返す。

「もう少しでぎんも来やがるから、黙ってろ」
「言われなくたって分かってらァ」

 * * * *


 ふつり、と。
 その人と私の縁が切れたのは、思い返せば何もない日だった。
 正直、いつまでももやもやと晴れぬ霧は私を滅入らせた。
 いや、滅入らせる事もあった。
 私は―薄情だけれど自分の事で手一杯になってしまい。
 彼を思い出せないときも少なくなかったのだ。


 ―これより数年後、私は烏に出会う―。























ここからおまた。




















―りん

「―センセ、今日ね、おまたセンセにお別れ―」

ぴしゃあぁんッ!!! カンカンカン!!!!(雨戸を補強する音)

「あ、センセひっどーい、あーけーてーよー。今逃したら二度とおまたと会えないよー」

「帰ってください今すぐ居なくなってください役人呼びますよ」

「セェーンセェー」

「うるさい化け物!!!」(←涙目)











ぬわぁぁああぁあ!!!!(scream)
緋村さんからこんな素ん晴らしい小説を頂いてしまいました!!!
こ…こんな作品を…うちなんかに…置いちゃっていいんですか…!!?
うわーん!!!泣いて小躍りしながら徒歩で君の家まで行きたい…!!!(行くなv)
表のインディ=ジョギに続き、いつもクオリティーの高いssを気前よく送ってくれて
ホントにありがとうございます!!!!!

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